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渡久兵衛回顧展(2017)

 

2017年

5月20日(土)〜6月25日(日)まで

直方谷尾美術館にて

「上野焼宗家十一代

渡久兵衛・回顧展」が

開催されています。

 

 

1602年、豊前藩主

細川忠興(三齋)は、尊楷を招いて

上野に築窯しました。

 

その尊楷の流れを汲む

渡窯の第十一代渡久兵衛先生

(1929〜2014)の回顧展です。

 

 

 

渡窯は、豊前小倉藩の

藩窯として代々世襲しましたが、

1889年に閉窯。

1937年には、十代目となる

渡源彦が職人を呼び寄せて復窯。

 

しかし、1942年に源彦が

他界したため閉窯しました。

 

 

それから1959年、

久兵衛は源彦の姪京子と結婚し、

1964年には義父の薫とともに

渡窯を再復興しました。

 

本展では、久兵衛の若い頃の

作品から晩年までの作品を

一堂に会し、作陶のあゆみを

ご紹介するとともに、渡窯の

これからと久兵衛が研鑽の場とした

筑陶会から筑豊の陶芸の広がりについて

ご覧いただきます。

 

 

渡窯の歴史と伝統を見学できる

素敵な展覧会ですので

ぜひ、会場に足をお運びください。

 

直方谷尾美術館

住所:福岡市直方市殿町10-35

電話番号 0949-22-0038

利用時間 9:30〜17:30

(入館は17:00まで)

休館日 毎週月曜日

一般100円(60円)、高大生50円(30円)

中学生以下は無料。( )は団体料金。

詳しくは直方谷尾美術館公式サイトまで

http://yumenity.jp/tanio/

 

 

アイラトビカズラ

 

 

「アイラトビカズラ」

 

という花をご存知でしょうか?

 

熊本県・山鹿(やまが)市街から

北東へ約14km、

 

「相良(あいら)寺」の周辺に咲く

 

とても貴重な花です。

 

 

 

 

 

この花が

 

なぜ?

貴重かと言いますと

 

日本では、

この場所にしか咲かない

ということで

 

国の特別天然記念物に

指定されている花だからです。

 

実際は、2000年9月に

長崎県の佐世保市の沖合に浮かぶ

 

九十九島の

「時計島(とこいしま)」

という島でも

自生していることが

発見されましたが

 

もともと日本では、

ここだけでしか

自生していないとされた花で

樹齢は1000年以上と言われます。

 

 

実際に相良寺に行ってみると

周辺の地図がありました。

 

 

 

よく見ると地図には

 

日本刀「同田貫」で

おなじみの菊池市

「稗方・ずだぬきエリア」周辺があり、

 

すぐ近くに「鞠智城」があります。

 

また、銀錯銘大刀(ぎんさくめいたち)

と呼ばれる

直刀に75字入りの

鉄刀が発見された

「江田船山古墳」もあります。

 

 

ここは

製鉄文化が古代からあった場所です。

 

そして、「製鉄」と共に「稲作」も

かなり古い時代からあったと

言われています。

 

 

ちなみに稲作と言えば

菊池市、玉名市、山鹿市、和水町の

3市1町で申請していた

 

「菊池川流域二千年の米作り」が

日本遺産に認定されたということで

大変おめでたいことですね。

 

写真:癒しの里「菊池市」公式サイトより

祝:日本遺産認定:菊池川流域二千年の米作り

 

実は、私が

 

この「アイラトビカズラ」に

興味を持ったのは、

この花が日本では、

 

この菊池川流域だけと聞いたからで

その後、花の原産がどこか?を調べたら

 

原産が中国・揚子江流域との事

だったからです。

 

それだけでは、とくに

興味を持たないところですが

 

 

実は

この菊池川流域から発見された

古代の土器に付着していた

籾痕のDNAを調べたところ

 

なんと

揚子江流域と一致した・・・

という

お話しを聞いたからでした。

 

アイラトビカズラが

なぜ遠く離れた熊本だけに

咲いているのか?

 

しかも、揚子江流域が原産の

この花があり、

そして籾痕のDNAが一致する・・

 

稲作のルーツ+

製鉄のルーツと

 

熊本と揚子江に咲く花に

何か関係があるのか?

なんて

古代のロマンに想いを馳せると

わくわくしてきます。

 

 

 

そんな気持ちで

アイラトビカズラを見学に行きました。

 

さきほどの

相良寺から300mほど

進んだところに

公園化された場所があります。

 

このような看板が立っており、

駐車場も用意されておりました。

 

 

 

 

階段を登ってみると

 

そこには

今まで見たことのない

不思議な花が咲いていました。

 

 

 

これが「アイラトビカズラ」。

確かに

これは日本の花ではないな〜

 

実は

同じ熊本の天草にも自生している

という話しも聞きました。

 

それにしても

日本と言うより

南国の花に見えますね。

 

 

現地の案内板には

下記のように書いてありました。

 

「マメ科のつる性の常緑木本。

つるは大きく、葉は濃緑色で光沢がある。

5月に太い茎を出し、

10~20個の暗紫色の

大きな蝶形の花をつける。

 

普通は結実しないが、

昭和37年に人工授粉により結実させた結果、

 

中国中部に分布する常春油麻藤と

同じ種類であることが確認された。

 

日本ではただ一本自生する

貴重な植物で、

樹令は約1000年と推定されている。

学 名:ムクナ センペルビーレンス

中国名:常春油麻藤(じょうしゅんゆまとう)」

 

 

詳しいことはわかりませんが

天然記念物なので

植物を傷つけることは禁止されています。

 

太古から続く

アイラトビカズラの花を

守っていきたいですね。

 

製鉄と稲作の謎を追い求めて

不思議な花と出会いました。

 

 

 

本当にありがとうございました!

 

2017年

4月1日から5月7日まで

37日間に渡り開催した

「菊池一族と延寿鍛冶展」が

おかげさまで終了いたしました。

 

ご来場いただきました

お客様に心より

お礼を申し上げます。

 

昨年は

熊本地震にて中止になりましたが

 

菊池観光協会、

菊池一族まつり実行委員会、

菊池市の皆様の

おかげで延寿鍛冶の魅力を

このように

紹介できて嬉しく思います。

 

居合道を志す私達も

参加させていただき

大変、勉強になりました。

 

普段、居合道を通じて

菊池の刀と

触れてきた私達にとっては

貴重な経験でした。

 

また、

700年間、

誰かが誰かに受け継いで

大切に保存してきたからこそ

この美しい延寿刀があると思うと

 

この文化を未来に

つなげていきたいと思いました。

 

会期中に遠方からお越しくださった方、

貴重な資料を

提供してくださった地元の皆様にも

心より感謝いたします。

 

また、次回

企画を練って延寿鍛冶展を

開催する予定とのことですので

どうぞ今後も宜しくお願いいたします。

 

本当にありがとうございました。

 

袖が浦の別れはどこだったのか?

 

 

前回は

1333年に「菊池武時」公が

博多の鎮西探題を攻めた

 

「博多合戦」のエピソードを

ご紹介しましたが、

 

本日は、

 

その博多合戦

「袖が浦の別れ」の舞台が

どこであったのか?についてです。

 

 

ちなみに

鎮西探題は櫛田神社から東方向、

 

地下鉄祗園駅までの範囲

と言われております。

 

それでは歩いてみましょう。

 

 

 

 

ここは地下鉄・祗園駅周辺。

 

現在は

 

このように

大都会になっております。

 

 

この奥が博多駅になり、

ここが地下鉄祗園駅の入り口です。

 

 

 

この周辺からは

 

多くの陶器なども

発掘されております。

 

 

 

 

現在地は

地下鉄・祗園駅のところ

 

ここから大博通りを

サンパレス側に進めば東長寺。

 

この裏手の道を歩いてみます。

 

 

 

ここが承天寺通り。

 

承天寺(じょうてんじ)は、

仁治3年(1242年)、

博多祗園山笠の創始者といわれる

聖一国師によって開山された寺で、

 

建立に際しては、宗(現在の中国)

からの帰化人で貿易商の

謝国明(しゃこくめい)が

聖一国師を助け、

 

太宰少弐・藤原(武藤)資頼が

資材を施すなど金銭的に援助しました。

 

少弐氏は博多の文化を

とても支えている武士だったのですね。

 

 

ちなみに

境内には博多織の始祖

満田弥三右衛門の碑や

 

 

聖一国師が伝えたとされる

うどん・蕎麦や饅頭発祥の記念碑が

あります。

 

 

 

こちらは

約200年ほど前の

1821年に描かれた

筑前名所図会の「承天寺の図」。

 

 

 

この絵が描かれた

1821年から

さらに488年も前の

1333年に「博多合戦」は起こりました。

 

ちなみに現在は

このような大都会です。

 

 

当時の

おもかげが残っているのが

承天寺さんや櫛田神社ですが

 

もはや、

道路も変わっております。

 

黒田長政公の時代に

埋め立てなどもあり、

川や海もなくなっているので

現在では解りません。

 

 

そこで

 

福岡市教育委員会が1996年に

纏めた博多49 博多遺跡群

第87次調査の概要

「福岡市埋蔵文化財調査報告書」

第443集に書かれている内容から

 

 

当時の様子をイメージして

描きおこしてみました。

 

ちなみに、かなり大雑把で

間違いもあると思いますが

ご了承ください。

 

 

中世博多の道路は、

 

13世紀末から14世紀初めにかけて

一斉に整備されたことが

明らかになっております。

 

一連の道路網の基軸になっているのは、

博多の南東のはずれである

 

今の出来町公園

(戦国時代後半には、房州堀の東門)から

 

承天寺・聖福寺の門前を通り、

11世紀の埋め立てによる陸橋部を抜けて、

息浜にいたる縦軸の道路です。

 

 

 

現在の承天寺を背に

出来町公園の方向を見た風景。

 

 

平成29年(2017年)現在、

工事中の出来町公園。

 

 

出来町公園の現在。

 

 

出来町公園から承天寺通りを見た位置。

この右後ろに

辻堂口があったようです。

 

 

 

古地図と重ねると

ここには川か海のようなものが

ありますね。

埋め立てと書いてありましたが

近くに川か海の形跡がないでしょうか?

 

 

古地図を見ると

承天寺の裏に

川のようなものが流れています。

 

現在はどうなっているのか

歩いてみましょう。

 

 

出来町公園から真っすぐ

承天寺方向に歩くと神社が見えてきます。

 

 

こちらは若八幡宮さんですね。

 

この奥のほうまで歩いてみます。

 

 

すると

大きな川が流れていました。

 

 

 

確かに川か海があったように思います。

 

もう一度、古地図と

現在の地図を重ねたものを

見てみます。

 

 

 

「福岡市埋蔵文化財調査報告書」

によりますと

 

博多湾側の砂丘を

「息浜」「沖浜」などと呼び、

 

平安時代後期から

博多には多数の宗人が居住し、

中国との貿易に従事します。

 

11世紀後半頃、

博多浜と息浜の間が

一部陸橋状に埋め立てられ、

息浜にも

生活の営みが及ぶようになります。

 

息浜が本格的に都市化するのは

13世紀以降のようですが、

 

室町時代には博多浜を凌ぎ、

朝鮮貿易・明貿易で繁栄を誇ります。

 

ちなみに戦国時代の戦禍で博多は荒廃し、

豊臣秀吉による復興を経て、

博多浜と息浜のふたつの町場が結合し、

近世都市博多に生まれ変わります。

 

とのこと。

 

 

ここが現在の櫛田神社。

博多祗園山笠で有名な神社です。

 

そこから歩いて数十メートルで

冷泉公園があります。

 

 

 

南北朝時代の刀鍛冶

冷泉貞盛がいた場所ですね。

 

そして現在の冷泉公園。

この奥が福岡の繁華街「中州」になります。

 

 

と言うことは

この周辺は海に囲まれ

博多浜があったようです。

 

 

 

ちなみに写真は

承天寺にあった「蒙古碇石」。

蒙古の船が近くにあったのでしょうか?

 

たしかに地図を見ますと

この冷泉公園の上に

「元寇防塁跡」が見えますので

元寇の形跡が感じられます。

 

 

 

時は1333年(元弘3年)、

菊池武時公が

少弐・大友の軍に

挟み撃ちに合い、

袖が浦の浜まで退却し、

 

息子である武重・武光に

菊池に戻るように命じ、

 

自分は敵陣に突撃する

別れの舞台。

 

 

物語では

武時が袖をやぶって

息子に渡すシーンが描かれ、

「袖」にちなんで

「袖が浦の別れ」というのかと思っていましたが

 

 

現在の「博多座」や

「福岡アジア美術館」がある通りに

 

「袖ノ湊」という場所があり、

 

沖ノ浜と

博多浜の間に挟まれるように

海岸があります。

 

 

菊池神社に飾ってあります

「袖が浦の別れ」の絵の舞台は

この「袖ノ湊」だったのではないか?

と考えました。

 

ちなみに

昭和29年の「肥後史話」には

このように書かれています。

 

「もうこれまでだ、

と思った武時は、とある

木陰(袖ケ浦)に、長男武重を

呼び寄せて、着て居た鎧直垂の袖を

ひきちぎり、矢立の墨で

 

故郷に今宵ばかりの命とも

知らでや人の我を待つらん

という一首の歌を書きつけた・・・

 

 

正確な場所は定かではありませんが

このエピソードの舞台が

今回、歩いた場所であったことは

間違いありません。

 

 

偶然、我が家にやってきた

一枚の絵から

博多の古地図を勉強するようになり

実際に足を運んでみて驚きましたが

 

いつも仕事で歩いている場所に

菊池武時公と縁のある歴史が

刻まれていようとは

夢にも思いませんでした。

 

 

684年前に実際に

博多でおこった出来事を想い

武士の歴史を学びました。

 

南北朝時代の正確な古地図が

わかりませんので

 

想像の部分も多いのですが、

今後も研究したいと思います。

 

本日は

ありがとうございました。

 

 

参考文献:

福岡市教育委員会 博多49 博多遺跡群

第87次調査の概要

「福岡市埋蔵文化財調査報告書」

博多合戦

 

 

1978年8月

 

福岡市博多区の祗園駅

地下鉄工事にともなって

実施された発掘調査で

 

大量の人骨が出土し

大きな話題になりました。

 

 

 

 

この人骨は

110体の男性の頭骨で

中には刀の傷があり、

 

のちに「博多合戦」で討たれた

菊池一族のものであることが

わかりました。

 

この物語の主人公となる人物が

菊池武時公です。

 

東福寺所蔵:菊池武時公像

 

彼は「延寿鍛冶」を

菊池に招いた武房公の孫であり、

武重、武光の父です。

 

 

さて、

 

数年前、

居合道の

小林先生から頂いた絵画。

 

 

 

当初、

 

楠木正成公の

「桜井の別れ」と思っておりましたが、

 

よく見ると

渡している布のようなものに

菊池の二枚「鷹の羽」紋があることから

 

これが「袖が浦の別れ」

であることが判明。

 

その日から

この物語に

興味を持つようになりました。

 

 

「袖が浦の別れ」は

 

南北朝時代に菊池武時が

鎮西探題を攻めた時の

エピソードですが

 

南北朝なので

京都や鎌倉の話しと思う方も

いらっしゃるかもしれません。

 

実際、1991年の大河ドラマ

「太平記」でも一切、

九州は描かれませんので

 

そもそも九州では

戦いなどなかったと

思われても仕方ありませんが

 

実は「関ヶ原の戦いクラス」の

大きな戦いが

この南北朝時代におこっています。

 

 

残念ながら

博多に住む人でも

知らない人が多いのですが・・・

 

と言うわけで

 

ここで少し、

この「博多合戦」について

お話いたします。

 

 

時は1333年(元弘3年)、

後醍醐天皇が

配流先の隠岐を脱出し

京都へ向う時期、

 

 

九州では後醍醐天皇からの

「綸旨(りんじ)」が

菊池武時のもとへ届きました。

 

綸旨とは

 

「蔵人(くろうど)」と

呼ばれる律令制下の令外官が

天皇の意を受けて

発給する命令文書のことで

 

これを受けた武時は

少弐貞経、

大友貞宗に使者を使わし、

 

後醍醐天皇の綸旨に

同調するように呼びかけ、

 

わずか200騎で探題を襲います。

 

その中には

まだ若い菊池武重と

幼い武光もいましたが

 

勇敢にも

父・武時と共に

博多合戦に参加していました。

 

少弐や大友と攻めれば

間違いなく探題は落とせる

と思っていた武時でしたが

 

もともと幕府と繋がりの深い

少弐と大友は

菊池一族に同調するように見せて

土壇場で裏切ります。

 

 

資料:風雲菊池一族:画:藤森よしひろ

菊池白龍会

 

 

実際、菊池から見ると

少弐氏は裏切りものですが

 

もともと彼らは

幕府側なので

別の見方をすれば

菊池が裏切ったとも言えます。

 

しかし、元寇の恩賞が少なく

全国の武士は

鎌倉幕府に不満を抱いており、

 

さらには

 

後醍醐天皇からの

綸旨に対して初期に動いたのが

菊池武時公になり、

この流れは各地でおこっていました。

 

 

ちなみに少弐氏は、

この後の戦いでも

菊池を裏切るので小説などでも、

悪く描かれてしまいます。

 

さて、

話しは「博多合戦」に戻りますが

 

少人数で攻めていた菊池と

阿蘇の両勢は

少弐・大友軍と探題から

挟み撃ちに合い、

袖が浦の浜まで退却します。

 

 

そこで菊池武時は

息子である武重・武光に

菊池に戻るように命じ、

 

自分は敵陣に突撃していくのでした。

 

※まんが風雲菊池一族では

武時公が自分の「袖」をやぶって

息子達に渡すシーンが描かれています。

 

 

 

 

その時

武時が詠んだ辞世の句が残っています。

 

「ふるさとに今宵ばかりの命とも

知らでや人のわれを待つらん」

 

訳すると

「妻や子、一族の人たちは、

 

わたしの命が

今夜かぎりのものだとは知らないで、

いまかいまかと

私の帰りを待っていることだろう」

という意味です。

 

 

 

 

その後、

 

息子である

武重は本隊をつれて敵陣を突破し、

幼い武光は

聖福寺の大方和尚に

助けてもらい菊池に戻ります。

 

覚悟を決めた

武時の軍は最後のひとりまで戦い、

全員討ち死にしました。

 

そして600年以上の時を超えて

地下鉄工事でみつかった人骨は

 

現在、菊池神社に保管され、

大切に供養されているのでした。

 

あらためて

歴史を振り返り

多くのことを学びます。

 

 

次回は、

「袖が浦の別れ」はどこだったのか?

の謎に迫ります。

 

 

 

菊池一族と鎌倉幕府

 

前回、(元寇編)で

 

モンゴル襲来によって

今までにない

戦闘方法を体験した菊池一族が

 

新しい日本刀を作るために

京都から名門「来一派」を

肥後に呼び寄せ、

 

その鍛冶集団が

「延寿」と名乗ったことを

ご紹介しました。

 

写真:熊本県指定

有形文化財 指定第一号(工芸)

特別重要刀剣 短刀 銘 国時(延寿)

(※2017年5月7日まで菊池夢美術館にて

展示しております。)

 

この時代、

京都から「延寿鍛冶」を呼び寄せるほど

菊池一族にとって

優れた日本刀が必要だったのです。

 

それだけ「元寇」は

重要な戦いでした。

 

実際に

この戦いで菊池一族も

多くの犠牲者を出しました。

 

 

また、全国の武士達も

モンゴルとの戦いで

大きな犠牲があったのです。

 

このように

2回の元寇を必死で戦った武士達は

 

当然のごとく

幕府からの恩賞を期待していました。

 

 

ところが・・・

 

幕府は武士が考えているような

恩賞を与えませんでした。

 

この頃から

社会が大きく変わっていきます。

 

その際の混乱ぶりを示しているのが

「悪党」と呼ばれる人達の登場です。

 

悪党というと

単純に「悪い人」のようなイメージですが

 

中世の「悪党」とは

荘園の領主とか鎌倉幕府に

武力で対抗した人達のことを言います。

 

支配者から見ると

悪党と呼ばれる人達ですが

 

当時の

「峯相記(みねあいき)」に

書かれた「悪党」の記録として

 

「浦々ノ海賊。寄取、強盗、山賊

カカル類い十人、二十人」

という集団で動いていたことが記され、

 

それから数十年後の

鎌倉幕府滅亡の時期には

 

50〜100人が馬に乗って

活動する武力集団に変化して、

それを国中の人々が

同意するようになったと

書かれています。

 

幕府に対しての不満が

頂点に達しようとしていました。

 

そこで鎌倉幕府は

「得宗の専制化」を行います。

 

得宗とは

鎌倉幕府の執権

北条氏嫡流の家督のこと・

初代・北条時政・以下九代の総称です。

 

中央(評定衆など)、

地方(守護)の要職を

北条一門が占め、

得宗領も拡大しておりました。

 

 

北条高時と北条氏の家臣が

幕府を独占で動かすようになっていき

 

北条氏の家臣の中の

TOPである内管領(長崎高資)と

(長崎円喜)が権勢をふるいます。

 

それに対して御家人の不満が

さらに高まり、

幕府が支持を失っていきます。

 

ちなみに余談ですが

1991年のNHK大河ドラマ「太平記」で

「長崎円喜」を

フランキー堺さんが演じていましたね。

 

ものすごい名演技で

憎ったらしい役を

見事に演じていらっしゃいました。

素晴らしい役者さんだなと思います。

 

資料:NHK大河ドラマ「太平記第5話」

 

この「太平記」

個人的にNHK大河ドラマの中でも

大好きな作品で

これを見ると

南北朝時代がよくわかります。

 

 

というか、

描くのに2〜3年はかかるものを

 

よく1年で纏めたな〜(笑)と思いますが

 

菊池一族は残念ながら

まったく出てきません。

 

多々良浜の戦いはどうした!

と言いたい菊池ファンの方も

多いとは思いますが

 

まあ、この番組は

尊氏公が主役ですので

仕方ありませんね・・・

 

 

さて、悪党に対して

政治を強化したつもりが

日本全国で多くの不満が溢れ

 

御家人で守られていた

鎌倉幕府が

中から崩壊していく時代になります。

 

そんな時に

 

後醍醐天皇が即位するのです。

 

 

資料:後醍醐天皇像(清浄光寺蔵)

 

後醍醐天皇は政治の実験を

幕府から取り戻し

天皇が政治を行うように考えます。

 

そして

鎌倉幕府を倒そうとする

計画を立てるのですが、

 

ここでは少し

後醍醐天皇についてご紹介します。

 

 

 

後醍醐天皇は

父・後宇多法皇に代わり

元享元年(1321年)から

新政を開始されました。

 

後宇多法皇は死の間際まで

皇太子の邦良親王を

大覚寺統の嫡流として、

 

後醍醐天皇にゆくゆくは

邦良親王への譲位を

行うように命じていましたが

元享4年に法皇が崩じると

 

後醍醐天皇は

邦良親王や持明院統、

幕府に対しても激しく反発しました。

 

これが南北朝時代の

原因となる部分ですが

 

それは、少し後の話しです。

 

ちなみに、

 

少しだけ南北朝時代を説明しますと

現在の奈良県(吉野地方)に「南朝」、

北の京都に「北朝」という

南北に分かれて

約60年間争った時代を

「南北朝時代」と言います。

 

さて、後醍醐天皇は

天皇自らの政治

「天皇親政」を行いました。

 

そして1324年

鎌倉幕府打倒を計ります。

 

これが「正中の変」(1324年)です。

 

高校の期末テスト以来、

この名前聞いた〜という人も

いらっしゃるかもしれませんが

大切な出来事です。

 

後醍醐天皇が

必死で行動したのですが

この計画は事前に

幕府に発覚し未遂に終わりました。

 

その後、1331年、

再び倒幕を考えた後醍醐天皇は、

さらに側近の密告で計画が漏れ、

幕府が御所に軍勢を送ると

後醍醐天皇は脱出し、

 

比叡山にむかうように

見せかけ笠置山で挙兵します。

 

しかし、倒幕は失敗し、

幕府に捕らえられた

後醍醐天皇は1332年、

島根県の隠岐に流されました。

 

 

その後、後醍醐の皇子

「護良親王」が

父の意志を継いで

奈良の吉野で挙兵しました。

 

資料:護良親王出陣図

 

また、楠木正成も挙兵し

悪党達・反幕府勢力を結集します。

正成は河内の山間にある

千早城に立て籠り、

幕府の大軍を悩ませます。

 

幕府が楠木正成の

千早城をおとせないことが

全国に知られると

幕府打倒の機運が高まりました。

 

 

一方、後醍醐天皇は

1333年に隠岐を脱出し

伯耆の国現在の鳥取県に上陸します。

 

そして船上山に立て籠り

この場所から倒幕を指揮します。

 

幕府の有力御家人であった

足利尊氏が

後醍醐天皇と戦うことを命じられ、

京都にむかいますが・・・

 

 

しかし、

尊氏が後醍醐天皇側に寝返り、

京都におかれた六波羅探題を

攻め落とします。

 

六波羅探題の北条仲時と

その一行400人は

東国に逃れようとしましたが

行く手を阻まれて自決。

 

その同じ時期、

新田義貞が群馬で挙兵。

 

 

戦いの舞台となった

神奈川県の稲村ケ崎。

 

 

 

義貞軍は鎌倉に攻め入り、

激戦のすえ、北条氏を倒しました。

 

得宗の北条高時は自害・・・

 

約150年続いた鎌倉幕府が

滅亡することになったのです。

 

 

思えば北条時宗など

立派な武士を生んだ北条家。

 

高時公も「太平記」や「増鏡」など

後世の記録では、

 

闘犬や田楽に興じた

暴君として書かれておりますが、

 

実際の史料は少なく、

のちに足利尊氏公を美化するために

誇張されたとも言われます。

 

しかし、

北条の一族郎党

870人と共に切腹したという

場所が今でも残っており、

 

武士として潔く切腹されたのでした。

 

源頼朝が開いた

鎌倉幕府滅亡の瞬間でした。

 

 

さて、今回は

菊池一族の生きた時代と

主に鎌倉幕府滅亡までを

見てきましたが、

 

同じ頃、九州でも

激しい戦いが繰り広げられて

いました。

 

次回は、九州での

菊池一族の戦いを

ご紹介したいと思います。

 

 

菊池一族と延寿鍛冶展(2017)は

2017年4月1日(土)〜5月7日(日)まで

菊池市の菊池夢美術館にて開催中です。

 

ぜひ、「菊池一族と延寿鍛冶展」で

延寿鍛冶の魅力を知っていただければ

幸いです。

 

詳しくは菊池観光協会公式サイトまで

 

 

 

 

 

菊池一族と延寿鍛冶シンポジウム

 

2017年4 月15日(土)

 

熊本県の

菊池神社菊華殿にて

菊池一族と延寿鍛冶シンポジウムを開催。

 

会場には多くのお客様に

ご来場いただきました。

 

当初、

予定しておりました人数を越え、

追加で椅子を用意するほど

多数のお客様に

お集りいただきました。

 

皆様に心より感謝いたします。

 

 

また、

 

私たちは

ちょうど1年前に

このシンポジウムを開催する予定でしたが

 

2016年

4月14日夜(前震)と

16日未明(本震)の

熊本地震により中止することになりました。

 

地震にて

お亡くなりになった方々の

ご冥福をお祈りするとともに、

被災者の皆様に心より

お見舞いを申し上げます。

 

 

あの日、

私達も、この菊池にて

地震を経験しました。

 

延寿展のスタッフも、

 

車中泊を経験したり、

自宅が壊れたり、余震で悩んだり、

様々な想いを抱いて

ここまで過ごしてきました。

 

 

今回、司会をしていただいた

中原さんは

 

私達が16日未明の

本震直後の真夜中に

 

菊池夢美術館にて行動を共にし、

その後、車中泊を経験されました。

 

私達とは

あの時の生きるか死ぬかの状況の中

強い絆が生まれたと思います。

 

 

考えてみれば

あれから1年、コツコツと

みんなで作り上げたシンポジウムです。

 

これは

小さな一歩かもしれない

 

しかし、熊本に700年前から伝わる

「延寿」という名刀を作った鍛冶集団と

菊池一族の文化を振り返る

貴重な一歩になればという

みんなの願いが

今回のイベントに繋がりました。

 

 

観光協会長の服部様の

ご挨拶にて開催。

 

菊池神社宮司の坂本様より

お言葉を頂きます。

 

観光協会の皆様も神社も

大変な一年を乗り越えて

やっとここまで辿り着きました。

 

私達は今回

(一社)菊池観光協会

菊池一族まつり実行委員会の皆様の

努力に感動いたしました。

 

そして

支えていただいた

熊本、菊池の皆様と

全国の皆様のおかげだと

改めて実感しました。

 

 

さて、

いよいよシンポジウムが開催します。

菊池神社宮司 坂本様のご挨拶。

 

 

坂本様は

明治神宮にいらしゃった時、

日本刀鑑定の権威である

佐藤寒山先生に師事され

刀剣を学ばれたとのこと。

 

日本刀の芸術性を

とても理解され

私達も勉強になります。

 

 

菊池神社と

菊池一族の歴史とともに

 

佐藤寒山先生の著書も

ご紹介くださいました。

 

 

そして

太田先生による

菊池一族と延寿鍛冶の講演。

 

 

テーマは

■菊池氏の歴史

■延寿鍛冶の歴史

■同田貫鍛冶

■菊池人の気質

について

 

 

歴史年表や日本刀の写真を

プロジェクターに写しながら

わかりやすく紹介していきます。

 

 

現代社会において 唯一、

日本刀を活用する居合道の立場から

刀の紹介も行われました。

 

 

菊池神社ですので

 

菊池ならではの

「菊池千本槍」の

ご紹介もさせていただきました。

 

 

また、

今回の特徴は

「日本刀から見た

菊池一族の歴史と文化」なので

 

今までのイベントとは、

また少し違って

 

「刀剣乱舞」で話題の

蛍丸や同田貫などエピソードも交え、

菊池の皆様も知らなかった日本刀から見た

菊池一族の歴史のことも

ご紹介していきました。

 

 

あっと言う間に

1時間が経過しまして

講演も無事終了となります。

 

 

最後に

観光協会の皆様より

菊池神社宮司の坂本様と

太田先生に花束が贈呈されました。

 

 

そして

シンポジウムの後は

少しの時間でしたが

 

交流会のような時間もあり

皆様、延寿鍛冶の文化に触れる機会も

ありました。

 

 

多くのお客様に心より

感謝いたします。

 

菊池一族と延寿鍛冶展は

5月7日まで続きますので

どうぞ菊池に

お越しください。

 

本日は

ありがとうございました。

 

 

菊池夢美術館のご案内

 

2017年4月1日(土)から

5月7(日)まで開催されております

 

「菊池一族と延寿鍛冶展2017」。

 

大変多くのお客様に

ご来場いただき

心より感謝いたします。

 

先週は、

 

俳優の佐藤健さんに

ご来場いただきました。

 

大変お忙しい中、

会場に足を運んでくださり、

 

また、私達の解説を聞いていただき

心より感謝いたします。

 

とても礼儀正しく

かっこいい方で

ますますファンになりました。

 

 

さて、

今回は

「菊池一族と延寿鍛冶展2017」の

会場となっております

「菊池夢美術館」をご紹介いたします。

 

会期中は

このように延寿鍛冶展ののぼりが

菊池のいたるところに立っております。

 

 

さて交通アクセスですが

 

九州自動車道利用の場合

九州自動車道植木インター経由、

国道3号線〜県道53号線、

国道325、387号線を利用して菊池市へ。

 

約30分。

「菊池一族と延寿鍛治展」会場の

夢美術館周辺には

無料駐車場がございます。

 

 

阿蘇くまもと空港から

路線バス利用の場合

九州産交バスの空港リムジンバスで

熊本交通センターへ(約50分)

その後熊本電鉄バスで菊池市へ(約60分)

 

JR熊本駅から

路線バス利用の場合

熊本電鉄バスで菊池市へ(約70分)

 

ちなみに上の写真は

菊池夢美術館前の

菊池温泉・市民広場前のバス停です。

 

 

ここが市民広場前の道です。

 

この位置を背にした場所に

菊池武光公の銅像があり、

その右手に「きくち観光物産館」、そして

その横に「菊池夢美術館」がございます。

 

 

こちらが「きくち観光物産館」

この道を渡ったところに

無料で「足湯」が楽しめる場所があります。

 

 

この奥にある建物が

「菊池夢美術館」になります。

 

 

わからない場合は

(一社)菊池観光協会に

お電話頂ければ幸いです。

 

電話:0968-25-0513

 

菊池一族と延寿鍛冶展(2017)は

2017年4月1日(土)〜5月7日(日)まで

菊池市の菊池夢美術館にて開催中です。

 

ちょうど今が桜の美しい時期ですので

ぜひ菊池に遊びにきてください。

 

詳しくは菊池観光協会公式サイトまで

 

 

月刊「九州王国」(菊池特集)

九州発の人、文化、

そして経済を伝える総合情報誌

月刊「九州王国」にて

今月号は

菊池一族と延寿鍛冶が特集されています。

 

関係者の皆様に心より感謝いたします。

 

詳しくは

月刊「九州王国」公式サイトへ

 

 

九州地区昇段審査(平成29年)完結編

武士道