肥後金工の源流を訪ねて(その2)

 

肥後金工が生まれた

熊本県八代市(やつしろし)のことを

戦国時代の宣教師「ルイス・フロイス」は

以下のように解説している。

 

「この地がいかに美しく、

清らかで豊饒であるかは容易に説明できるものではない。
まるで日本の自然は、

そこに鮮やかな技巧による緞帳を張ったかのようであり、
その地の美と快適はひとしお際立つものがあった。

そこには、いくつもの美しい川が流れ、

多数の岩魚が満ちあふれている。
見渡す限り小麦や大麦の畑が展開し、

清浄で優雅な樹木に覆われた森には
小鳥たちの快い囀りが満ちあふれている。」

ルイス・フロイス

 

 

肥後金工は、そんな美しい八代で作られた。

 

八代に住む皆様、熊本に住む皆様にも

もっと知ってもらいたい。

 

 

今では石垣だけが残る八代城。

その近くにある

現在の松井神社に、細川三斎(忠興)は住んでいた。

 

元和5年(1619)に嫡子・細川忠利に家督を譲り、隠居。

その後、寛永9年(1632)に徳川家から、警戒されていた

加藤忠広が改易になると

細川忠利が小倉より肥後に入国。

 

 

その時、忠利の父である三斎は八代に入国。

正保2年(1645)に83歳で亡くなるまで

この場所で静かに暮らした。

 

 

この庭を三斎は歩いたのか。

平田、西垣、志水も

肥後金工の制作をするために

文化的な指導を受けに訪れたのだろうか?

 

タイムスリップするように

肥後金工の時代を空想する。

 

 

ここで

全国の肥後金工ファンの皆様に

珍しい場所をご紹介したい。

 

松井神社の裏に橋がある。

それを渡ると、裏に八代市立第一中学校が見える。

 

その一角に

三斎が生涯、大切にしたものがあった。

 

 

それは、今では学校の角にひっそりとあり、

 

目立たない。

 

しかし、ここにあるものは

三斎にとって特別な人物との

深い関係を物語るもの。

 

それは・・・

 

 

織田信長の供養塔。

 

塔の高さは146cm、

水輪に梵字が刻まれ、

地輪正面には「織田将軍 去遊四十九才、天正十年六月二日」、

裏面には「寛永十年六月三日」、

左側面には「細川参議敬建」と記されている。

 

 

自分の妻であるガラシャ、

その父である「明智光秀」が

本能寺でいきなり「織田信長」を殺害した

日本最強のミステリー「本能寺の変」。

 

忠興の「忠」も、信長の嫡男・信忠の一字を拝領したもので、

彼にとって信長は特別な存在だったはず。

しかし、

殺害したのが皮肉な事に、自分の義理の父「明智光秀」。

 

 

この事件で、誰よりも危険な存在だったのは

細川三斎(忠興)であった。

 

あの時の判断を間違っていたら命はない

 

八代に来ることもなければ

「肥後金工」は誕生していない。

 

信長の供養塔がここにあるのは、

霊を弔うためでもあると思うが、

信長への忠義を多くの人達に

示すためだったとも考えられる。

 

 

細川三斎(忠興)が一生、背中に背負っていたのは

「本能寺の変」だったと思う。

 

少し脱線して

前回の話に戻るが

 

この「信長と光秀」を背中に背負い

「死」と隣り合わせの生活を生きてきた彼と

「古田織部」では背負っているものが違う。

 

例え

利休の有力な弟子であったとしても

三斎が常に控えめに行動したのは

「本能寺の変」の影響があると考えられる。

 

しかし、織部が茶の湯に新しい革命を起こし、

「織部焼」に代表される革新的な芸術を残したのに対し、

 

三斎は

茶道で、あえて目立つ表現を避け、

あくまでも

武士として「肥後金工」という

最高の「武士道美術」を生み出すことに

晩年をつぎ込んだ。

 

それが

刀は「備前」

鐔は「肥後」

と言われるほどの武士のブランド

「肥後金工」になる。

 

それは

「本能寺の変」を背負い、

控えめに生きてきた三斎の美学だからこそ

肥後金工には「渋さ」があるのではないか。

 

 

私達は「肥後金工」を見る時に

三斎の人生を考えなければならない。

 

八代で没する時、彼は孤独だった。

 

幽斎、信長、秀吉、家康、利休、宗二、織部、ガラシャ、

そして息子の忠利までも失った中で

「肥後金工」を制作している。

 

「わびさび」や「一期一会」の深い意味を

誰よりも感じていたに違いない。

 

 

松井神社には

三斎が植えたと言われる

「臥龍梅(がりょうばい)」という梅が今も残る。

 

八代から、多くの偉人が出ることを望んで

植えられたとも言われるが、

 

私は

 

信長や利休など

愛するものたちへ捧げた花に見える。

 

ルイスフロイスが美しいと言った八代こそ

三斎にとって人生の楽園だったのだろう。

肥後金工は

そんな美しい場所で誕生した。

 

 

 

資料:熊本県庁:八代市(臥竜梅)写真:八代市ホームページより

wikipedia 明智光秀、千利休

ルイスフロイス:松田毅一・川崎桃太 共訳 (中央公論社)より

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