島津義弘
戦国武将を学ぶ
島津義弘
Yoshihiro Shimazu
関ヶ原合戦で退却時に徳川家康の本陣近くを敵中突破。
家康を震えあがらせた猛将
島津義弘とは

16代当主島津義久の弟。戦国期における薩摩島津家の版図拡大に多大な貢献を果たした。木崎原の戦いにおいて、日向国大名・伊東義祐率いる3000の兵に対し300の寡兵でこれを奇襲。伊東家を滅亡させる。朝鮮の役で、秀吉の死によって日本軍が朝鮮半島より総退却となり、朝鮮半島南端の泗川城において殿軍を勤め、困難な退却戦を見事成功させ、さらに続く露梁海戦では朝鮮水軍の名将・李舜臣を討ち取るなどし、明軍から恐れられた。
関ヶ原の合戦では、義弘は西軍に属し敗戦となったが、退却戦において寡兵で東軍側を敵中突破を果たした。
仏門に深く帰依し、慈悲深く人徳の高かったと言われ家臣からの信頼も厚く、義弘の死を13名が追った。

島津義弘
島津義弘像(米沢市上杉博物館蔵)
島津義弘・年表まとめ
天文4年(1535年)   薩摩国、大隅国、日向国の守護島津氏の二男として生まれる。
     
天文23年(1554年)   初陣。
     
永禄3年(1572年)   木崎原の戦
伊東義祐率いる3000の兵に対し300の兵で勝利。
     
元亀3年(1578年)   耳川の戦
豊後国から南下した大友宗麟に勝利
     
天正12年(1584年)   肥前国の沖田畷の戦で、弟の島津家久が龍造寺隆信を討つ。
     
天正13年(1585年)   子供のいない兄島津義久から家督を譲り受ける。
     
天正15年(1587年)   20万の大軍で九州攻めを行った豊臣秀吉に、最後まで抵抗するが、兄島津義久の説得され降伏。
     
天正20年(1592年)   二度に渡る朝鮮への侵攻(文禄の役・慶長の役)に参陣。
     
慶長3年(1598年)   朝鮮からの引き上げでは殿軍を勤め、わずかな手兵で李舜臣の水軍に勝利するなど貢献。
鬼石曼子(シーマンズ)と呼ばれ、恐れられた。
     
慶長5年(1600年)   関ヶ原の戦の直前、初め東軍の徳川家康方についていたが、西軍の蜂起の際鳥居元忠の守る伏見城への入城ができず、仕方なく西軍につき伏見城攻めに参加。
戦いの直前、夜討ちによる先制攻撃を提案するが石田三成に取り入れられず、合戦開始後も全く動こうとしなかった。
西軍の敗北が決定的になったあと、敵陣への突破という捨て身の戦法で難を逃れ、海路薩摩国に戻った。
この退却戦で、重臣である島津豊久や長寿院盛淳が討ち死に。
     
元和5年(1619年)   85歳という当時としては驚異的な長寿を全うし、生涯を閉じた。当時、固く禁じられていたにも関わらず、義弘を心から慕う家臣13名が後を追って殉死した。
     
島津義弘と文化遺産・歴史ガイド
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島津義弘・youtube 動画一覧
島津義弘・ヒューマンエピソード
家臣の子の誕生を喜んだ
家臣に子が生まれ、生後30余日を過ぎると父母共々館に招き、その子を自身の膝に抱くと「子は宝なり」とその誕生を祝した。また元服した者の初御目見えの際、その父親が手柄のある者であれば「お主は父に似ているので、父に劣らない働きをするだろう」と言い、父に手柄のない者には「お主の父は運悪く手柄と言えるものはなかったが、お主は父に勝るように見えるから手柄をたてるのだぞ」と一人一人に声を掛けて励ましている。


愛妻家
家庭を大事にする人情味溢れる性格だった。朝鮮在陣中に妻に送った手紙の中に、「3年も朝鮮の陣中で苦労してきたのも、島津の家や子供たちのためを思えばこそだ。だが、もし自分が死んでしまったら子供たちはどうなるだろうと思うと涙が止まらない。お前には多くの子供がいるのだから、私が死んでも子供たちのためにも強く生きてほしい。そうしてくれることが、1万部のお経を詠んでくれるより嬉しい」という内容のものがあり、義弘の家族を心から愛する人となりが窺える。


肝が太かった
義弘の小姓らが主君の不在をいいことに囲炉裏端で火箸を火の中で焼いて遊んでいた。そこに義弘がやってきたので、小姓らは慌てて火箸を灰の中に取り落とした。それを見て義弘は素手で囲炉裏に落ちていた火箸を拾い、顔色一つ変えず静かに灰の中に突き立てた。後で家臣が「大丈夫ですか?」と尋ねると「大丈夫だ。小姓どもは悪いことばかりして手を焼かせおる」と返した。家臣が義弘の手を見ると、その掌が真っ赤に焼きぶくれていたという。


情け深かった
家康だけでなく秀吉も島津氏を恐れ、その弱体化を図るために義弘を優遇して逆に兄の義久を冷遇する事で兄弟の対立を煽ろうとしたが、島津四兄弟の結束は固く、微塵とも互いを疑うことは無かった。この流れで義弘を17代目当主という見方が出来たとされるが、義弘は「予、辱くも義久公の舎弟となりて」と義久を敬うこと終生変わらなかった。また敵に対しても情け深く、朝鮮の役の後には敵味方将兵の供養塔を高野山に建設している。


島津義弘の家紋
島津義弘の家紋
丸に十字


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