袖が浦の別れはどこだったのか?

 

 

前回は

1333年に「菊池武時」公が

博多の鎮西探題を攻めた

 

「博多合戦」のエピソードを

ご紹介しましたが、

 

本日は、

 

その博多合戦

「袖が浦の別れ」の舞台が

どこであったのか?についてです。

 

 

ちなみに

鎮西探題は櫛田神社から東方向、

 

地下鉄祗園駅までの範囲

と言われております。

 

それでは歩いてみましょう。

 

 

 

 

ここは地下鉄・祗園駅周辺。

 

現在は

 

このように

大都会になっております。

 

 

この奥が博多駅になり、

ここが地下鉄祗園駅の入り口です。

 

 

 

この周辺からは

 

多くの陶器なども

発掘されております。

 

 

 

 

現在地は

地下鉄・祗園駅のところ

 

ここから大博通りを

サンパレス側に進めば東長寺。

 

この裏手の道を歩いてみます。

 

 

 

ここが承天寺通り。

 

承天寺(じょうてんじ)は、

仁治3年(1242年)、

博多祗園山笠の創始者といわれる

聖一国師によって開山された寺で、

 

建立に際しては、宗(現在の中国)

からの帰化人で貿易商の

謝国明(しゃこくめい)が

聖一国師を助け、

 

太宰少弐・藤原(武藤)資頼が

資材を施すなど金銭的に援助しました。

 

少弐氏は博多の文化を

とても支えている武士だったのですね。

 

 

ちなみに

境内には博多織の始祖

満田弥三右衛門の碑や

 

 

聖一国師が伝えたとされる

うどん・蕎麦や饅頭発祥の記念碑が

あります。

 

 

 

こちらは

約200年ほど前の

1821年に描かれた

筑前名所図会の「承天寺の図」。

 

 

 

この絵が描かれた

1821年から

さらに488年も前の

1333年に「博多合戦」は起こりました。

 

ちなみに現在は

このような大都会です。

 

 

当時の

おもかげが残っているのが

承天寺さんや櫛田神社ですが

 

もはや、

道路も変わっております。

 

黒田長政公の時代に

埋め立てなどもあり、

川や海もなくなっているので

現在では解りません。

 

 

そこで

 

福岡市教育委員会が1996年に

纏めた博多49 博多遺跡群

第87次調査の概要

「福岡市埋蔵文化財調査報告書」

第443集に書かれている内容から

 

 

当時の様子をイメージして

描きおこしてみました。

 

ちなみに、かなり大雑把で

間違いもあると思いますが

ご了承ください。

 

 

中世博多の道路は、

 

13世紀末から14世紀初めにかけて

一斉に整備されたことが

明らかになっております。

 

一連の道路網の基軸になっているのは、

博多の南東のはずれである

 

今の出来町公園

(戦国時代後半には、房州堀の東門)から

 

承天寺・聖福寺の門前を通り、

11世紀の埋め立てによる陸橋部を抜けて、

息浜にいたる縦軸の道路です。

 

 

 

現在の承天寺を背に

出来町公園の方向を見た風景。

 

 

平成29年(2017年)現在、

工事中の出来町公園。

 

 

出来町公園の現在。

 

 

出来町公園から承天寺通りを見た位置。

この右後ろに

辻堂口があったようです。

 

 

 

古地図と重ねると

ここには川か海のようなものが

ありますね。

埋め立てと書いてありましたが

近くに川か海の形跡がないでしょうか?

 

 

古地図を見ると

承天寺の裏に

川のようなものが流れています。

 

現在はどうなっているのか

歩いてみましょう。

 

 

出来町公園から真っすぐ

承天寺方向に歩くと神社が見えてきます。

 

 

こちらは若八幡宮さんですね。

 

この奥のほうまで歩いてみます。

 

 

すると

大きな川が流れていました。

 

 

 

確かに川か海があったように思います。

 

もう一度、古地図と

現在の地図を重ねたものを

見てみます。

 

 

 

「福岡市埋蔵文化財調査報告書」

によりますと

 

博多湾側の砂丘を

「息浜」「沖浜」などと呼び、

 

平安時代後期から

博多には多数の宗人が居住し、

中国との貿易に従事します。

 

11世紀後半頃、

博多浜と息浜の間が

一部陸橋状に埋め立てられ、

息浜にも

生活の営みが及ぶようになります。

 

息浜が本格的に都市化するのは

13世紀以降のようですが、

 

室町時代には博多浜を凌ぎ、

朝鮮貿易・明貿易で繁栄を誇ります。

 

ちなみに戦国時代の戦禍で博多は荒廃し、

豊臣秀吉による復興を経て、

博多浜と息浜のふたつの町場が結合し、

近世都市博多に生まれ変わります。

 

とのこと。

 

 

ここが現在の櫛田神社。

博多祗園山笠で有名な神社です。

 

そこから歩いて数十メートルで

冷泉公園があります。

 

 

 

南北朝時代の刀鍛冶

冷泉貞盛がいた場所ですね。

 

そして現在の冷泉公園。

この奥が福岡の繁華街「中州」になります。

 

 

と言うことは

この周辺は海に囲まれ

博多浜があったようです。

 

 

 

ちなみに写真は

承天寺にあった「蒙古碇石」。

蒙古の船が近くにあったのでしょうか?

 

たしかに地図を見ますと

この冷泉公園の上に

「元寇防塁跡」が見えますので

元寇の形跡が感じられます。

 

 

 

時は1333年(元弘3年)、

菊池武時公が

少弐・大友の軍に

挟み撃ちに合い、

袖が浦の浜まで退却し、

 

息子である武重・武光に

菊池に戻るように命じ、

 

自分は敵陣に突撃する

別れの舞台。

 

 

物語では

武時が袖をやぶって

息子に渡すシーンが描かれ、

「袖」にちなんで

「袖が浦の別れ」というのかと思っていましたが

 

 

現在の「博多座」や

「福岡アジア美術館」がある通りに

 

「袖ノ湊」という場所があり、

 

沖ノ浜と

博多浜の間に挟まれるように

海岸があります。

 

 

菊池神社に飾ってあります

「袖が浦の別れ」の絵の舞台は

この「袖ノ湊」だったのではないか?

と考えました。

 

ちなみに

昭和29年の「肥後史話」には

このように書かれています。

 

「もうこれまでだ、

と思った武時は、とある

木陰(袖ケ浦)に、長男武重を

呼び寄せて、着て居た鎧直垂の袖を

ひきちぎり、矢立の墨で

 

故郷に今宵ばかりの命とも

知らでや人の我を待つらん

という一首の歌を書きつけた・・・

 

 

正確な場所は定かではありませんが

このエピソードの舞台が

今回、歩いた場所であったことは

間違いありません。

 

 

偶然、我が家にやってきた

一枚の絵から

博多の古地図を勉強するようになり

実際に足を運んでみて驚きましたが

 

いつも仕事で歩いている場所に

菊池武時公と縁のある歴史が

刻まれていようとは

夢にも思いませんでした。

 

 

684年前に実際に

博多でおこった出来事を想い

武士の歴史を学びました。

 

南北朝時代の正確な古地図が

わかりませんので

 

想像の部分も多いのですが、

今後も研究したいと思います。

 

本日は

ありがとうございました。

 

 

参考文献:

福岡市教育委員会 博多49 博多遺跡群

第87次調査の概要

「福岡市埋蔵文化財調査報告書」

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