大谷吉継
戦国武将を学ぶ
大谷吉継
Yoshitugu Otani
病と闘いながらも
友情に殉じた名将
大谷吉継とは

越前敦賀城主。出身は近江説と豊後説がある。秀吉の小姓として仕え、才を認められて抜擢される。賤ヶ岳・九州・小田原戦役などで活躍。秀吉から百万の兵を与えてみたいと言わせた軍才と奉行としての手腕も持ち合わせるが、皮膚病(ハンセン病)を患っていたため顔を白布で覆い、病状の進行により最終的に視力も無くし、その才を出せなかった。本来は家康派で、関ヶ原戦では親友の石田三成の熱意に応じ、敗北を覚悟しつつ西軍に荷担。関ヶ原本戦で、手勢2000を率いて小早川秀秋を警戒する布陣を行い、小早川軍の東軍荷担参戦後もこれを退け、さらに脇坂隊・朽木隊などの4隊が東軍に寝返って攻撃してきたことで大谷隊は崩壊、吉継も自刃した。

大谷吉継
大谷吉継像
大谷吉継・年表まとめ
永禄2年(1559年)   父が病気治療のために豊後に赴いて、そのまま一時期大友氏の家臣になっていた折に生まれたという説もある。 母は豊臣秀吉の正室の高台院(北政所、おね、ねね)の侍女である東殿といわれる。
     
天正2年(1574年)   近江国の長浜城主羽柴(豊臣)秀吉の側小姓として仕える。(石田三成の口利きという説あり)
     
天正5年(1577年)   秀吉の中国攻めに参加。
     
天正11年(1583年)   賤ヶ岳の戦の直前、敵の吉村又吉郎の調落に成功。今尾城の開城に立ち会っていたことから、参戦できず。
これにより官吏面での才をかわれるようになる。
     
天正14年(1586年)   病気治癒のため千人切りを行っているという噂を立てられるが、真犯人が見つかり無実となる。
     
天正17年(1589年)   越前国敦賀5万7千石を拝領、敦賀城主になる。
     
天正18年(1590年)   石田三成らと小田原城攻めの際、北条方の支城攻めを行うが、失敗。
     
天正20年(1592年)   文禄の役(朝鮮出兵)で、軍監として自らも渡海。
     
慶長3年(1598年)   秀吉が死ぬと、徳川家康に接近する。
     
慶長5年(1600年)   徳川家康に従い上杉討伐へ向かう途中、美濃国の垂井で親友石田三成へ使いを出し、家康との和睦のため三成自身か子の石田重家の上杉征伐への同道をすすめたが埒が明かず、自身佐和山へ向かい三成と会談。逆に三成に説得され、西軍につくことを決意。関ヶ原の戦では藤堂高虎らと激突、善戦するが、小早川秀秋や脇坂安治らの裏切りによる横槍をまともに受けて隊は壊滅、その中で自刃。辞世は「契りあらば六つのちまたに待てしばしおくれ先立つたがひありとも」
     
大谷吉継と文化遺産・歴史ガイド
大谷吉継wikipedia
http://ja.wikipedia.org/wiki/大谷吉継

越前敦賀城
http://www.asahi-net.or.jp/~qb2t-nkns/
turuga.htm


関ケ原観光情報のポータルサイト
http://www.kanko-sekigahara.jp/

敦賀観光協会
http://www.turuga.org/

佐賀県立名護屋城博物館
http://www.pref.saga.lg.jp/web/nagoya.html

熊本城公式ホームページ
  
大谷吉継・youtube 動画一覧
大谷吉継・ヒューマンエピソード
三成との友情物語
ある時、茶会があった。集まった諸将は茶碗に入った茶を、1口ずつ飲んで次の者へ回す、回し飲みを始めた。
この時、病気持ちの吉継が口をつけた茶碗は誰もが嫌い、
後の者たちは病がうつるのを恐がって飲むふりをするだけであった。しかし、三成だけは違った。三成は普段と変わりなくその茶を飲んだ。吉継は感激し、以後2人は友と呼び合う仲になったという。


出自と病気
吉継は当時伝染病として恐れられていた皮膚病(ハンセン病)を患っていて体や顔からも膿が出るほど重いものだった。そのため、醜く崩れた顔を白い布で覆っていたという。晩年には目も不自由になり、歩行も困難なほどに悪化した。それでも一介の大名として一目置かれていたのだから、実力もあったのだろう。なお、彼の娘は真田幸村に嫁いでいるので、叔父甥の関係になる。


関ヶ原での見事な散り際
秀吉の死後、天下統一の野心をむき出しにした徳川家康は、会津の上杉討伐に向かう。この時、吉継も従軍したが、途中佐和山城に立ち寄ったおり、三成から家康打倒の決心を聞かされる。驚いた吉継は、家康に勝つ見込みの薄いことや、三成の人望のなさを指摘し、思いとどまるよう忠告する。親友なればこその諫言である。が結局、三成は決起し、関ヶ原の合戦が勃発する。吉継は友情を取り、勝ち目のない戦に身を捧げた。吉継は2000の兵で関ヶ原の西、松尾山の麓に布陣。小早川秀秋が裏切った場合、自らその盾となる覚悟である。目も見えず、体の自由もきかぬ吉継は、輿に乗って指揮をとり、藤堂高虎、京極高知を迎え撃って奮戦した。結局、正午に小早川秀秋は東軍に寝返り、1万5千の大軍が大谷隊の側面に討ちかかった。かねて予期していた大谷隊は小早川隊を押し返す奮戦を見せるが、続いて付近にいた脇坂、朽木、小川、赤座の部隊も寝返り、一斉に大谷隊に攻撃を仕掛けた。こうなってはさすがの大谷隊も壊滅し、吉継は乱戦の中で自刃した。「三成、地獄で会おうぞ」介錯した家臣の湯浅五助は、首を守って落ち延び、手厚く葬った。


大谷吉継の家紋
大谷吉継の家紋
対い蝶紋


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