直江兼続
戦国武将を学ぶ
直江兼続
Kanetugu Naoe
「愛」と「義」に生きた戦国の智将
関が原の戦いのきっかけとなった人物
直江兼続とは

越後国南魚郡上田庄の坂戸城下で生まれ。父、上田衆樋口兼豊の長男として生まれる。幼名は与六。幼少の頃から才に長け上杉景勝の母に認められ、5歳年上の上杉景勝の小姓として仕えた。長尾政景が亡くなると、景勝は謙信の養子になり直江兼続も謙信の元で『義』の精神を学ぶ。与板城主・直江信綱が殺害されると、景勝はお船と兼続を結婚させた。兼続は、直属の家臣団・与板衆を中心に様々な事業を推し進め、城下町与板の基礎を築く。与板地域の伝統工芸品・打ち刃物の起源は、兼続の時代頃だと伝えられている。関ケ原の合戦後、上杉家が米沢に減封されてからも、君主・領民のために力を注ぎ江戸の屋敷にて、病死、享年60歳。

直江兼続
直江兼続像(米沢市上杉博物館蔵)
直江兼続・年表まとめ
永禄3年(1560年)   越後国南魚郡上田庄の坂戸城下で生まれる。幼少は樋口与六。
幼少の頃に、仙桃院の進めにより、景勝の小姓となる
     
天正6年(1578年)   御館の乱。 
景勝の勝利これにより上杉家の家督は、景勝に変わる
     
天正8年(1580年)   与六兼続の名で景勝の代わりに御館の乱の論功行賞の知行を与える。
     
天正9年(1581年)   景勝の重臣の直江信綱が死亡。
景勝は直江信綱の娘のおせんを、兼続に嫁がせ名家の直江家を継ぎ、与板城城主となる。これ以降直江兼続となる。
     
天正11年(1583年)   直江山城守兼続を名乗る。
     
天正16年(1588年)   景勝・兼続上洛、秀吉のとりつぎにより、兼続従五位下の位を授けられる。秀吉は兼続に豊臣姓を許す。兼続、僧南化から、重要古文書を借り、20巻を書写する。
     
慶長5年(1600年)   秀吉死後、権勢を握ろうとする、徳川家康は上杉に上洛をせまるが、上杉はこれを拒否。そして、僧承兌の書状に対しておくられた、俗にいわれる「直江状」により家康は、上杉討伐を決意これにより、関が原の序章がはじまる。
家康出陣のあと、石田三成が挙兵、これにより関が原の戦いがはじまる
     
慶長6年(1601年)   米沢の直江兼続の所領(30万石)に上杉景勝は減封させられる。
     
慶長19年(1614年)   大阪の冬の陣に参戦 徳川秀忠より感謝状と太刀一腰ならびに小袖を拝領した
     
元和2年(1616年)   大阪夏の陣に参戦、豊臣氏滅亡。景明病死。
     
元和5年(1619年)   江戸の屋敷にて、病死、享年60歳。
     
直江兼続と文化遺産・歴史ガイド
熊本城公式ホームページ
  
直江兼続・youtube 動画一覧
直江兼続・ヒューマンエピソード
天下人、秀吉の舌を巻かせた男
小田原攻めの陣中、豊臣秀吉は人物評価のために石垣山の本陣で宴をしばしば、開いていた。他の諸侯に漏れることなく、兼続も呼ばれ、秀吉に「山城守ならば、小田原城をどう、攻めるか?」と問われる。すると、兼続は秀吉の意のままにスラスラと答えたという。
兼続の答えを聞いて、秀吉は「そちに二十万の大軍を預け、高見の見物をしたいものよ。」と言わさせ、時服と佩刀を与えた。
 天下人秀吉の前で、臆することなく、自分の意見を言える程の胆力、天下人秀吉の意に適う意見をズバリ言い当てる才に秀吉は、大満足したに違いない。


兼続の名裁判!?
上杉家家臣の横田式部が、茶坊主を無礼打ちにした。それに怒った、茶坊主の遺族は兼続に詰め寄った。これに対して、兼続は「銀七十枚で、納得せよ」という。だが、遺族は「銀を七十枚だろうが、七百枚つまれようが、納得せぬ。死んだ者を生きて、返せ!!」と詰め寄る。そこで、兼続は手紙を書き、「もう一度、問う。この訴訟を起こした張本人は誰だ?」そこで、張本人である人物が、我こそはという不適な笑みを浮かべて立ち上がった。そこで兼続は「兼続がいかような裁決をくだそうにも、その方達は納得すまい。こうなった以上、死んだ者を生き返らせるしかない。今、閻魔大王に手紙を書いたので、この手紙を閻魔大王に見せて、死んだ者を連れて帰ってきて欲しい。」と言いったという。


堀秀治への仕返し?
上杉景勝が越後から会津へ国替えとなったとき、上杉家のあとに入ったのが、堀秀治。しかし、秀治は新領地に着任して、いきなり窮地に立たされる。それは、米倉が空になっていたのだ。通常、国替えがあったときは1年の半分の年貢米を新領主のために残すのだが、兼続の命により、1年分の年貢米を会津へ持っていった。この状態では困るということで、秀治は早速、半年分の返還を申し入れるが、兼続は「会津の旧領主の蒲生氏も1年分を持ち去ったので、返せない」という。困った秀治は、新潟代官の河村彦左衛門から米を借りて急場をしのぐが、この彦左衛門、実は上杉旧家臣。兼続は彦左衛門から秀治の借用書を買収して、しつこく催促した。さらに、百姓が引越しできないように各国で登録してあるある百姓まで連れて行き、上杉旧家臣の浪人を越後に置いていき、兼続はたびたび一揆を起こさせたのだから、新領主の秀治はたまらない。


直江兼続の家紋
直江兼続の家紋
三盛亀甲三つ葉


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