肥後金工・林又七と俵屋宗達

林又七(はやしまたひち)と俵屋宗達(たわらやそうたつ)。
同じ時代を生きた2人の描く鶴にスポットを当ててみた。

この絵は、肥後金工師・林又七が制作した刀の鐔・舞鶴透鐔の背景に
俵屋宗達が描いた鶴の図を構成している。

太田光柾 2010 水彩 日本画材(林又七・舞鶴透鐔と俵屋宗達・鶴)

※余談だが最近、復活したJALのマークは
林又七が制作した舞鶴透鐔や日本の家紋がモチーフと言われている。
現代でも通じる斬新なデザインに日本人の美的感覚の素晴らしさを感じる。

ところで
林又七(はやしまたひち)と俵屋宗達(たわらやそうたつ)の
生涯や制作活動には謎が多いが、
そのヴェールに包まれたところが魅力的である。

林又七は、肥後金工のスーパースター。
そして、熊本に伝わる伝統工芸・
肥後象嵌(ひごぞうがん)の祖とも言われている。

肥後金工師・菊川輝夫先生のお話しによると

その格調高い鐔のデザイン、布目象嵌の精妙さ
彫込象嵌の雅さは現在の職人が真似をしようとしても
真似のできない技術とのこと。

ちなみに菊川輝夫先生は、肥後金工の人間国宝だった
故・米光太平光正(よねみつたへいみつまさ)氏に師事し、
現在も熊本にて肥後金工を作り続けておられる先生である。

そんな米光氏も生前、
又七の作品に一歩でも近づこうと努力されていたそうで、
又七を乗り越すことを大きな目標にしていたと言う。

それぐらい林又七という人物が肥後鐔の世界では偉大なる存在であり、
後世にも影響を与えたことがわかる。

一方、
俵屋宗達は美術の教科書でも有名な画家。

この絵は有名である。

宗達は、伝記に不明な点が多く、生没年さえわかっていない。
おそらく1570年代かその少し前の生まれと推定される。

また、烏丸光広や本阿弥光悦らの書巻に下絵を描き、
寛永7年(1630年)には町の絵師としては
異例の法橋の位が与えられ、当時から一流の絵師とみなされていた。

おそらく当時、日本を代表する芸術家の一人であったわけで、
林又七も接触はなかったにしても存在を知っていたのではないか?と考えられる。

少なくとも林又七が影響を受けた細川 忠興(三斎)公は、
当時、一流の文化人であり、利休七哲の一人。

古田織部や本阿弥光悦とも交流していたわけなので、
宗達の絵を見る、もしくは接触があったのではないか?と考えた。
こうやって歴史の謎を解きながら空想するのが実に面白い(笑)

2人の描いた鶴を一つの世界にまとめてみると
また違った世界感を楽しむことができるから不思議だ。

彼らがどんな思いで描いたのか?
細川 忠興(三斎)公は、この両方のデザインを見たのだろうか?

又七と宗達が残した作品だけが、その本当の答えを知っている。

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武士道